みんなで守ろう!地域の安全
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わが国が大々的に犯罪対策を進めて早5年近くなろうとしている。この間の諸対策は、官民挙げてのもので、そのいずれもが立派に役割を果たし、その結果、犯罪の発生が著しく減少するなど、見るべき成果を挙げている。多々ある社会問題の中で、これほど成果を生んだ取組は稀有であり、長くこの問題に携わった者として誇りに思うとともに、地域でパトロールをされた方などいろいろな形でこの問題に関わられた方に心からエールを送りたいと思う。
ところで、犯罪は社会を映す鏡と言われるが、最近しばしば発生している「殺す相手は誰でも良かった」という無差別殺人は、社会のどのような側面を照らし出しているのだろうか。
財産目的でも怨根からでもない動機不明の殺人事件は、これまでにも少なからずあった。私たちの記憶に残されているものとしては、覚せい剤のフラッシュバック現象としてのそれであり、また、精神的に障害のある者による凶行である。昭和50年代中ごろに、「通り魔事件」と名づけられた一連の事件はその象徴的なものである。それは、犯人の被害妄想の高じたもので、「殺されそうだから殺さなければ」という内心の発露であった。したがって、当時は、この種の事件の被疑者が果たして刑事責任能力を有するのかが重要なテーマであり、また、その種の犯罪を犯す虞(おそれ)の高いものを隔離する保安処分を新たに導入するべきではないかが議論を呼びもしたのである。
しかし、今私たちの前で繰り広げられている無差別殺人の犯人の内心はまったく様相が異なる。平成13年6月に発生した池田小学校事件、今年3月に茨城県で起こった8人殺傷事件、6月に秋葉原で発生した17人殺傷事件などを見ればわかるように、社会から孤立したと感じ、希望を失った者(こういう人々は無数にいるが)が、自分を追い込んだ社会(具体的な誰かではなく社会そのもの)に対して、覚悟の上で、反撃しているのである。おそらく、彼らとて、1度や2度の挫折でこのような決心がついたわけではあるまい。はたして、彼の深刻な葛藤、自己嫌悪が導いた先は、社会への復讐と抗議の一念であった。そして、これをかなえるために策を弄し、無防備の弱者を対象に選び、事件を大々的に報道させようとしたのである。このような者は刑事責任能力に欠けるところがないことは明らかだという点でも先に述べた通り魔事件とは異なる。
また、成人だけではなく、少年たちによってこの種事件が引き起こされていることにも注意を払う必要がある。平成9年に発生した酒鬼薔薇事件、いくつかのホームレス襲撃事件、本年1月の岡山でのホームからの突き落とし事件などからは、家庭や学校など彼らの生活基盤において孤立感に深くさいなまれた、こどもなりに出口の見えない閉塞感が読み取れる。
この種の犯罪の背景として、過度の競争社会や格差社会の進展を挙げる者は多い。確かに、その意味では先輩格のアメリカでは、相当以前から、銃の乱射により多数の死者を出す事件が絶えない。犯人の年齢は様々で、少年が学校で乱射する事件も少なくない。日本では銃社会の恐怖として伝えられ、また、その側面も大きいが、今我々が問題にしているのと同質の事件がアメリカ社会では一足先に頻繁に起こっていたということだ。
アメリカもわが国も、他国と比べ、豊かな、言いたいことの言える成熟した社会と言ってよいが、そんな社会でもすべての人が幸せだと感じているわけではない。時代が移っても人間の本性は変わらず、さびしがり屋の上に、ねたみ深い。不平不満の塊で、失望しやすく、折れやすい弱き存在だ。他方で、忍耐強く、助け合って、希望を見出して、あるいは、ただ社会に迷惑をかけるまいという一念で、生きていく力も持ち合わせいる。ただ、そんな人間の多面的な本性がどのように発現するかとなると、社会のありようや個人を包む環境等が綯い交ぜとなって、また、偶然の要素の重みもあって、本人とて自在にコントロールすることなどできるものではない。ただ、そんな人間の本性が変わらないのに、これまでにない事件が頻発し、なんとなくこれからも起こりそうだとの不安が覆っている状況から見れば、人間の本性以外の何かに変化があったに違いない。それは、人間を取り巻くもの、即ち、社会のあり方、人間の成育の過程などに、何か人々を逃れがたいくびきに追い込んでいく病理が生じてきていると考えるほかない。
ではいったい、その病理とはどういうものだろう。これを全面的に論じることは私の手に負えないことであるが、伝えられるところから、次の様なことが推定できるように思う。
犯人たちの内心は、自分がぼんやりとながら予定していたそれなりに楽しい、生きがいのある人生とそうではない現実の落差に対する衝撃と将来への絶望感に縛り付けられてしまったように見える。「こんな人生を送るはずではなかった、誰かに裏切られた、騙された、もう自分はおしまいだ。」という具合である。これは、世間から見れば、世の中を甘く見ていたということでもあり、大きな錯覚をしていたとも言える。ここに早いうちに気づかなかった本人にも責任があるが、そのように彼に思い込ませた周囲のあり方にも問題があったはずである。親、学校、彼の接してきた狭い社会の大人たちやこれらの発する膨大な情報に、彼にそう信じ込ませたものがあったはずである。
たとえ、そのような錯覚に長い間陥り、現実社会の大きな壁に阻まれたとしても、それを乗り越えていく人は数多いだろう。しかし、そこから脱却する道を見出せず、また、それを手助けしてくれる誰かにめぐり会わぬまま、ひたすら孤立感を深め、将来への絶望の思いから逃れられなくなる者も少なくない。引きこもりとか、ニートとか呼ばれる人々の中にはこのような心象風景にある人も少なくあるまい。いわば、未成熟な大人を現代社会は少なからず生み出しているように思うのだ。そして、社会には、このように錯覚に陥った人々を無視し、排除する冷酷さが確かに存在する。例えば、そういう彼らを「負け組」と決め付け、まるで水に落ちた犬を棒で突くが如く、世の脱落者として扱う風潮。競争社会であることから生じるとしても、それをはるかに超えた、異質の、人間に対する攻撃がある。
このような錯覚の醸成と社会からの排除の加速こそが私が社会の病理と呼ぶものの実相である。
この病理は、他の様々な要素を加えつつ、誰とは言えぬ社会の何かにはしごをはずされ、さらに突き落とされていくような感じを持たせることがある。この種の犯人たちの「追い込まれた」孤立感はこんなものではないか。その感情には、病や薬物の影響による高じた被害者意識と共通点があるようにも思われるのである。
それでは、そのような社会の病理から生じる犯罪を防ぐことができるのだろうか。厳罰化がこの種の犯罪の抑止力にならないこともあり、今、多くの人々は、この種の犯罪が自分の身に降りかからないように祈っているだけのように見える。
確かに、これからもそんなに多数、少なくともアメリカほどには、この種の事件が発生するとは思われない。それでも私はこの問題にこだわり、病理を治癒しようとすることが社会全体にとって大切だと思う。その理由は、この病理がわが国の多くの若者を襲っており、彼らの社会不信を呼び、また、その立ち直りに困難や無力感を感じさせているのである。そして、この状況を放置すれば、このような思いを持つ人々の不幸というだけではなく、社会全体の発展に大きな影をもたらすからである。
それに、思い起こしていただきたいが、自殺者が平成10年から急に増えて3万人台になった。自殺にはいろいろな理由があり一概には言えないが、「こんなはずではなかった」と絶望した方の急増が自殺者数を押し上げたのではないか。「誰でも良かった殺人」を生み出した社会の病理は、新たな自殺者をも作り出したのではないか。現に、この二つの問題は、ほぼ時を同じくして生じてきたのだ。
こうして、数は少ないこの種の事件の背景にある問題に、社会は強い危機感を持って目を向けるべきだろう。そうすれば、私には、かなりドラマティックな展開が見えてくる。
というのは、こんな犯罪を犯した者も、ほんの少しだけものの見方を変えることが出来ていれば、犯罪に及ぶことはなかったと思うからである。例えば、「周りには自分と同じ思いのものは少なくない、むしろもっと厳しい状況にある者もいる、自分もまだがんばれるかもしれない、少しすれば生きる意味を見出せるかもしれない。」と考えられていれば、先に述べた、錯覚から目を覚ましさえしていれば犯罪は起こらなかったのである。このように考えれば、社会としてもやれることが見えてくる。このような人々に「なかなか思い通りにならない、甘くないのが社会というもの。あなたは、残念なことに、それを教えられなかったか、誤解したかなのだ。あなたにばかり責任があるわけではない、社会全体としても、あなたにそのような錯覚をさせるあいまいな動きもあったのだ。少し時間はかかったが、あなたは真実を知ったのだ。今までは不運とあきらめて、生き直してみよう。あなたは、あなたと同じ苦しみをしてきた人々が見えるようになるだろう」と伝えればよいのだ。そして、今の子どもたちには、一人前の社会人となることは簡単ではないこと、君の生きる社会は決してばら色ではないのだ、子どもの頃からしっかり鍛えておこうと率直に具体的に伝えなければならない。
このメッセージを苦しむ若者に伝え、また、すべての子どもたちに教えるためには、社会の各方面で、行政機関も、ボランティアもかなり大きなエネルギーを投入する必要がある。個別のカウンセリングや相談をどう充実するか、教育内容をどう見直すか、家族の絆をどう作り上げるか、社会がそれをどう後押しするか、また、社会全体として「なるほど、われわれの先行きは決して楽ではない、資源のないわが国は、家族、地域社会がこぞって力を合わせて、子どもと若者を育て、勤勉で創造力のある人々を育ててこそ、厳しいグローバル化の中でしのいでいけるのだ」という流れをどのように作るかが具体的な課題として登場するのである。
そうは言っても、私の推論で社会は動き始まるわけではない。これを裏付ける営みが必要である。それは犯人たちの内心の軌跡の解明である。大きくは変わらないように見える環境にありながら、生き抜いている大多数の人々がいる中で、彼らはなぜにあのような凶行に及んだのだろうか。その生育の過程、おかれていた環境等を仔細に見れば、どうすれば取り返しのつかないようなことをせずにすんだのか、そのヒントが得られるに違いない。おそらく私の推論以外にも解明できることは多いはずだ。犯人やその家族の協力を得なければならないとしても、このような作業を行うチームを作り、何らかの権限を与えて対処することが必要だと思う。これぐらいの投資は、この問題の重要性からすれば、惜しくはないように思うのだが、皆さんはどう考えられるだろうか。