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北の湖理事長の急逝に思う・・・

2015年11月
販売企画調査部  佐藤大吉

「巨人、大鵬、卵焼き」――。私は幼い頃、母方の祖父といっしょに大相撲をよくテレビ観戦しました。もちろん、私は大鵬が大好きな普通の子どもです。一方、祖父、そして私の父は山形県出身、特に父は東田川郡の生まれだったので大鵬は天敵、柏戸の熱狂的なファンだったのです。「大鵬が横綱になれたのは、柏戸がいたからだ」――。祖父は柏戸の引退後、大鵬の取り組みが終わると、晩酌をしながら、膝の上に乗せた私に言いました。

その無敵の大鵬の最後の雄姿は、1971年(昭和46年)の初場所で飾った最後の32回目の優勝でした。勢いのある若い横綱玉の海を本割、優勝決定戦と連勝して勝ち取った逆転優勝でした。同じ位にある者同士の対戦で連勝することは難しいといわれており、奇跡の逆転優勝と言えるものでした。

その後、同じようなことが起きたのは、大関北の湖と横綱輪島との1974年(昭和49年)7月の名古屋場所でした。番付けでは下位と上位の対戦ではありましたが、横綱を勝ち取る勢いある若い大関が連敗するとは、私は考えませんでした。しかも、左下手投げに破れるなんて、とひじょうに悔しい思いをしたのです(私が悔しい思いをしても仕方ないのですが…)。

私が思うに、下手投げを決め技とした最強の力士は輪島だったろうと考えます。上手投げの返し技が下手投げというのが常識ですから、それを単独で決め技とする輪島は変則相撲だと、私は考えていました。一方、この変則相撲をとる強豪はきっと北の湖の前に立ちはだかる分厚い壁になる、と私は思いました。

■怪童現る  

大鵬の引退後、私の大相撲への関心は薄れていました。小学校6年生だった1973年(昭和48年)九州場所、私は北の湖を初めて知りました。当時家業だった新聞販売店の朝刊配達を手伝っていた私は、自転車に新聞を積むため、新聞を揃えていたとき、双葉山の写真と並ぶ北の湖の写真に目が留まりました。あんこ型の大きなお腹に筋肉のひび割れがあると、同じようにひび割れのあった双葉山の写真が並んでいたのです。新関脇になったばかりの二十歳の怪童は、骨折した左足首にチューブを巻き、10勝5敗という成績でその年最後の本場所を終えたのです。スピード出世の記録を次々と塗り替えていた北の湖は、大関昇進を翌年にかけることになりました。

立ち合いからの左かち上げで相手の身体を起し、右上手を浅く取り、左下手を深く差し込みながら、一気に土俵際まで相手力士を持っていくスピード感ある相撲をとる、切れ長な目をした青年に、私は興味を持ち始めました。間違いなく、本格派の相撲取りになる、そう思いました。

■休場したのに優勝した横綱輪島  

その年の九州場所は、珍記録が生まれた場所でもありました。

横綱輪島が大関貴ノ花との一戦で右手の人差し指と中指との間が裂けてしまい、六針を縫う重傷を負いました。ケガを押して出場した翌日の横綱北の富士戦では黒星を喫し、連勝は27でストップしたものの、横綱琴桜、関脇北の湖が破れたため13日目で幕の内最高優勝は輪島に決まったのです。 輪島は14日目不戦敗、そして千秋楽は休場したため、最終成績は12勝2敗1休となりました。

■「みずうみ」なのに「うみ」?  

師匠の三保ヶ席親方(大関・初代増位山)は、多彩な趣味を持つインテリだったそうです。「みずうみ」を「うみ」と読ませたのは、水上勉の小説の題名でそう読ませたものがあったことをヒントにしたそうです。北の湖は、北海道壮瞥町が出身地でした。洞爺湖を思わせる四股名として「北の湖」と、三保ヶ関親方が名づけたといいます。当時は、大関昇進をまもなく勝ち取るであろう北の湖の話題が、新聞紙面に数多く掲載されました。

■1974年(昭和49年)初場所破竹の10連勝/初優勝  

優勝候補筆頭の横綱輪島と初日に対戦した関脇北の湖は、輪島を寄り切りで破ると、その勢いで10連勝と白星街道をばく進します。そして迎えた11日目、西小結魁傑との対戦では、土俵際で投げの打ち合いとなり、行事は北の湖に軍配を上げましたが、物言いがつき、協議の結果、行事差し違えとなって魁傑の上手投げに破れました。結局、この場所はそれが唯一の黒星。その後も白星を積み重ねた北の湖は14勝1敗で初の天皇賜杯を手にし、大関昇進を果たしました。

■悔しい! 横綱輪島に連敗するも横綱昇進

大関2場所目の夏場所に13勝2敗で2回目の優勝を果たした北の湖は、名古屋場所で「綱取り」に挑戦することになりました。  

12日目に先輩大関貴ノ花に破れ1敗と土がつきましたが、横綱輪島は2敗しており、賜杯レースは北の湖が1差リードという状態で千秋楽結びの一番を迎えました。

北の湖は本割で輪島を破り優勝を決めたかったところでしたが、学生横綱をはじめアマチュア相撲のタイトルを数多く勝ち取っている輪島の豊富な経験と研ぎ澄まされた勝負勘の前に、北の湖は破れました。決まり手は、「黄金の左腕」から繰り出された下手投げでした。2回取れば1回は勝つだろうという大方の予測は見事に裏切られました。

■21歳2か月、史上最年少横綱の誕生  

場所後には横綱審議委員会が開かれ、「大関で2場所連続優勝か、それに準ずる成績」という内規をクリアしたこと、直前3場所の成績が36勝9敗と大鵬と同じ成績で、柏戸の33勝12敗を上回った――ことなどが決め手となり、秋場所を新横綱として迎えることになりました。

これまでの大鵬の最年少昇進記録をわずか1か月上回る21歳2か月の史上最年少横綱が誕生したのです。

横綱北の湖はヒール役として、輪島をはじめ貴ノ花や若三杉(2代目若乃花)、三重の海、千代の富士と堂々と渡り合いました。輪島が引退した後、北の湖を脅かすライバルがなかなか出てこなかったこと、実質上の一人横綱となってしまい、故障しても休場できない場所が続いたことが、北の湖が守勢にまわると驚くほど弱い一面を見せた原因となったのでは――、と私は考えてしまいます。ケガを抱えたままの出場が続き、しかも休場の許されなかったことが土俵際で粘れなかった理由の一つだったのではないでしょうか。現に引退するまでの間、土俵に上がった北の湖の左足首には包帯が巻かれたままでした。

これは、あくまで「贔屓の引き倒し」である北の湖ファンが勝手に推測しているのですから、ここはご容赦のほど、よろしくお願い申し上げます。

最後になりますが、北の湖は「土俵入り」の美しかった横綱として角界関係者の中では有名でした。静まり返った国技館内に、彼の柏手がピシっと響き、耳の奥にその余韻が残るほどでした。彼はいい音の柏手を打つため、土俵入りの前、必ず掌を水につけていました。これほどに横綱土俵入りを神聖に考えていた力士は、現在の横綱には存在しないのではないでしょうか。 雲竜型の土俵入りは、彼に土俵入りを教えた出羽一門の総帥、当時の春日野理事長(元横綱栃錦)のそれに似て、テンポが速めの小気味良いものでした。せり上がり時にしっかりと腰が入っているその姿は、それはそれはきれいな姿でした。

今日まで、私の心の支えでもあった北の湖。あまりにも早過ぎる。まるで最盛期の横綱相撲を取ったように――。

ご冥福をお祈りいたします。

 

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