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目前の勝ちが転げ落ちる瞬間を見た!

2015年11月
販売企画調査部  佐藤大吉

「世界野球プレミア12」が終わりました。優勝チームは韓国代表チームでした。おめでとうございます。

さて、日本のトップチームは11月21日土曜日の3位決定戦にまわり、メキシコ代表チームを11-1のコールドゲームで見事に下し3位の栄冠に輝きました。

「栄冠に輝いた」――?と、疑問符を投げかける声は野球ファンの間では実に多いことでしょう。なぜ、彼らは日本のトップチームが勝ち取った第3位という名誉ある結果を素直に喜べないのでしょうか?

1934年(昭和9年)、弊社の正力松太郎によって大日本東京野球倶楽部が創設されたことが日本プロ野球の始まりとされています。第2次大戦前は1リーグでペナントを争いました。その後、第2次大戦の終末期には活動を中断。戦後すぐ再開されました。やがて、赤バットの川上選手(巨人)や青バットの大下選手(セネタース)などの国民的スターも出てきましたが、それでも当時の東京六大学の人気には及びませんでした。

しかしながら、1958年(昭和33年)、東京六大学のスター立教大学の長島(後に長嶋)茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の3人が巨人、南海(現ソフトバンク)、阪急(現オリックス)に入団したのと歩調を合わせるかのように、プロ野球の隆盛期が始まりました。東京六大学のホームラン記録(8本)を引っ下げデビューした長島は、川上選手の後継者として巨人打線の中核を担い29本塁打、92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得しました。打率も3割を上回り、規定打数に達した打者の中で2位という見事な好打者ぶりを発揮しました。

南海に入団した杉浦は、アンダースローから繰り出す速球とカーブを操り、27勝を上げ新人王に輝きました。翌年には38勝を上げ、押しも押されぬエースになります。阪急に入った本屋敷も、1年目から即戦力として定位置を確保。俊足巧打の内野手として、後に阪神タイガースでも活躍をしました。

立教三羽烏のこうした活躍が日本国民の野球熱をさらに高め、1959年(昭和34年)、初めて天皇皇后両陛下がご覧になられた「天覧試合」で、長島選手は、新人とはいえエース格の村山実投手(当時大阪タイガース、現阪神)からサヨナラホームランを後楽園のレフト上段に放り込みました(ちなみにONアベックホームランもこの試合が初)。日本社会は、この後高度経済成長期に入り、いよいよプロ野球は国民的スポーツとしての地位を確固たるものとします。そして、一般家庭にまでテレビが普及するようになり、「野球」は「実質的国技」として不動の人気を得るようになったのです。

この頃、野球ファンを増やすため、日本シリーズが終わった秋季にはメジャーリーグの単独チームや混成チームが日本に呼ばれるようになります。

1964年(昭和39年)には、南海の村上雅則投手が野球留学中に所属していたサンフランシスコジャイアンツ傘下の1Aチームからメジャーに昇格。日本人初のメジャーリーガーとなりました。村上投手は昇格後、ニューヨークメッツ戦でデビュー。この年、9試合に登板して1勝1セーブの成績を収めました。翌1965年にも同チームで4勝1敗8セーブの活躍を見せ、ベースボール発祥の地アメリカでも日本人が通用することが認められました。

1995年(平成7年)には、前年に近鉄を退団した野茂英雄投手がロサンゼルスドジャースで大活躍すると、メジャーリーグが私たちの身近に感じられるようになりました。野茂投手の躍動感あふれる「トルネード投法」は全米を席巻し、「ノモマニア」という言葉が生まれる程でした。その活躍ぶりは記録にも残っています。彼はナショナルリーグ(ドジャース)で1回、アメリカンリーグ(レッドソックス)でも1回、合計2回のノーヒットノーランを達成しています。両リーグでノーヒットノーランを達成した投手は、サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアン、ランディ・ジョンソン、そして野茂英雄の5人だそうです。偉大な投手の中に野茂英雄の名が輝いています。

その後、野手として、イチローが2001年(平成13年)にシアトルマリナーズに入団しました。その活躍はここで述べる必要はないでしょう。彼は野茂英雄選手以上に活躍し、メジャーリーグの野球を変えたとまで言われています。シーズン最多安打のメジャー記録(2004年/平成16年)262安打は、今も燦然と光り輝いています。

※2015年11月24日現在、メジャーリーグにおける通算打率は3割1分4厘(日米通算4213安打。《内容》日1278、米2935)。

そのイチローが中心選手として日本代表チームの一員となり、王監督、原監督が率いたWBCで2連覇するという偉業を見てきた私たちは、「野球はベースボールを超越した」と、鼻高々になってしまったことは言うまでもありません。

それゆえ、シドニー、北京五輪での4位、前回のWBCでの3位、そして今回の3位という、他の競技であればひじょうに優秀な成績を、日本のトップチームの成績として容認し難いDNAが、いつしか私たちの身体の中で培養されてしまったのです。

準決勝の韓国戦に負けたことは、非常に残念でした。しかし、相手がバットを持って打席に立っている以上、剛速球や快速球、鋭く曲がるスライダーやスプリット、フォークボールが打ち返される確率は決して0(ゼロ)でないことは、誰もが承知していることです。

しかも、「ライバル日本に勝ちたい」というチームの強い気持ちが日本を上回った結果、韓国代表チームに勝利の凱歌があがったのですから、日本のトップチームを「不甲斐ない」と嘆くのではなく、相手チームを褒めるべきでしょう。

日本のトップチームが韓国代表チームに負けた原因を探せば、私個人の考え方ですが、ベンチワークの差にあったと思われます。日本が世界を勝ち取った「スモールベースボール」は、今大会ではまったくと言っていいほど機能していませんでした。ベンチワークで勝ったゲームが1度もなかったと言っていい、と私は考えます。

☆もしも――①――☆ 準決勝の韓国戦、9回表の無死1、2塁の場面で鄭根宇に三塁線を破られたタイムリー二塁打は、本来ならサードキャンバス際を抜ける長打を防ぐため、三塁手をライン寄りに寄せておくことを忘れていたベンチのエラーです。ゲームの只中にいる三塁手は、いくらベテラン選手といえども、体中が熱くなり、時に守備体形の基本を忘れてしまうことがあります。ベンチワークが発揮されるのは、そうした「瞬間」にあります。

すなわち、松田選手に、ベンチから「ライン寄りに守備位置を変える」よう指示すべきだったということになります。

「タラレバ」はいけませんが、もしキャンバス寄りの守備位置を取っていたら、松田選手は鄭根宇の打球を身体の正面でさばき、3塁ベースを踏んで1塁へ送球したでしょう。場面は2アウト、ランナー2塁に変わったはずです。

☆もしも――②――☆ 同韓国戦、「継投ミス」という野球ファンがたくさんいます。小久保監督も「継投ミス」と言っているのですから、これも真実であることに間違いはありません。

ただ、私が思うに、仕事でもスポーツでも、起こり得る場面を想定した準備がすべてを決するといっても過言ではない――と強く感じたのです。

話は戻ります。継投ミスかどうか検証してみましょう(私の勝手な個人的意見ですが)。

当初から大谷投手(日本ハム)を7回までとしていたなら、ここで継投したことはミスではありません。リリーフに出した則本投手(東北楽天)も8回は完璧に抑えました。当初からベンチが「8、9回は則本投手でいく」と当人に伝えていれば何ら問題はありません。ですが、8回の投球を見て9回の続投を決めたとしたら、「ここにミスが出た!」と私は思います。

あの強い緊張感ある中でのピッチングは、投手に肉体的・精神的にも大きな疲労感を与えるものです。ここでベンチが則本投手の続投を決めたのであれば、これは手痛いミスです。これぞ「継投ミス」の典型例です。

前述した「もしも①、②」という私の推測が当たっていたとしたら、掌中に収めていた「勝ち」が転げ落ちたのは、ベンチにいた首脳陣のベンチワークということになります。つまり、一言でいえば、韓国代表チーム首脳陣との「経験の差」だったと言えるのではないでしょうか。

あの場面、「選手と同じ気持ちになり、熱くなってしまった」――。「勝ち」が転げ落ちた瞬間です。

いろんな意見があるものと思います。「こうした見方もあるんだな」――と、笑っていただけたなら幸いです。

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